アンドリュー・カーネギー 鋼鉄王で篤志家

アンドリュー・カーネギーは、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪と言われています。事業で大成功を収めた後に、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2013年の今日でも慈善活動家としてよく知られています。そして、カーネギーの『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっています。

スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住しました。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となります。その後間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行いました。

1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代にはカーネギー鉄鋼会社は世界最大で最も高収益な会社となりました。事業で得た莫大な富でカーネギー・ホールなどを建てています。そして引退した従業員のための年金基金も創設しました。その後1901年、J・P・モルガンに4億8000万ドルでカーネギー鉄鋼会社を売却。エルバート・H・ゲイリーのフェデラル鉄鋼会社と合併してUSスチールとなりました。

カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げることになりました。図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしています。アッパーアイオワ大学のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長デイビッド・B・ヘンダーソンに2万5千ドルを寄贈しています。ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供しました。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設です。

ボランティアのすすめ

計算高い少年

あるエピソードがあります。それは、カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことです。果物屋の店先に山積みされていたさくらんぼに見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言いました。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしません。 そこで果物やの主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねますが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしませんでした。 主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてあげました。 それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」とカーネギー少年に尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたといいます。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語っていますね。

1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれました。しかし次第に当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決めました。移住するための費用も借金する必要がありました。ちなみに移民したアラゲイニーですが、その当時は貧民街でした。1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、13歳のカーネギーは1日12時間週6日働きました。当初の週給は1.20ドル。父は当初綿織物工場で働いていましたが、リンネルを織って行商する仕事を始めることになりました。母は靴の包装で生活費を稼いでいました。

たゆまぬ努力と探究心

カーネギーはその後何度か転職を繰り返し、1850年に叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就きます(週給2.50ドル)。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになったといいます。カーネギーは非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶していきました。記憶することによって、多くの関係を築いていきます。そして、自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電報配達の仕事から昇格し、電信技士へとなりました。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を解放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きにもなりました。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いていきました。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらすことになります。

1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立つことになりました。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であるため、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だったからです。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価管理について多くを学ぶことになりました。

スコットはまた、カーネギーの最初の投資についても支援しています。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあったので、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていました。1855年、スコットはカーネギーに500ドルでアダムス・エクスプレスの株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出しました。した。数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めました。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めることになります。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資していきます。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いていきました。その後も企業を設立する際にトムソンとスコットとの密接な関係を利用して、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらいました。

それから、南北戦争があったため、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まっていきます。やがてピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていきました。カーネギーは戦前から製鉄業に投資していたので、それが富の源泉となりました。南北戦争終結後には、製鉄業に専念。やがてカーネギーはアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営するまでになり、製鋼業で財産を形成しました。

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