ジョン・ロックフェラーとは

ジョン・ロックフェラーはスタンダード・オイル創業者でシカゴ大学とロックフェラー大学の創設。セントラル・フィリピン大学が創設する際には、資金提供をしています。一般教育委員会創設し、ロックフェラー財団創設しました。純資産は6634億USドル(2007年の価値に換算すると)という、庶民の私には想像もつかない金額です。ジョン・ロックフェラーはどのように財を成したのでしょうか?!

ビンガムトンの北西20マイルほどのニューヨーク州リッチフォードで、ウィリアム・エーヴリー・ロックフェラーとその妻イライザ・デイヴィソンの6人の子供の2番目として生まれました。

系図学者は、祖先の一部はフランスのユグノーで、17世紀にドイツに逃れたとしています。ジョン・ロックフェラーの父はかつては林業を営んでいましたが、セールスマンとなり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いていました。エリキシールは怪しい薬で、効能は不老不死となることができると伝えられる霊薬、万能薬だけに、近所の人々はそんな珍しいもの好きの父を "Big Bill" とか "Devil Bill" と呼んでいました。父は旅に出ていることが多く、家には時折帰ってくるだけでした。そんな父は生涯、真面目に働こうとはしない父で、常に一山当てようと一攫千金を狙っている山師のような男でした。母親のイライザは信心深いバプテストで、夫が不在の間でも家庭を維持するため奮闘していました。夫が頻繁に外に女を作り、時には重婚さえもしていたこともありますが、ひたすらイライザは耐えて耐えて耐え抜いていました。

そんなお金もまともに稼いでこない夫だったので、ロックフェラーの家は自然に倹約が常となりました。息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んでいきました。ロックフェラー少年は、家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けていきました。父は、「小皿を大皿と交換しろ」という助言を息子に教え込んでいたため、ロックフェラー少年は常に取引で有利になることを心がけていくように育ちました。父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と、道義的には???と思えますが、山師らしい言葉だな。とも思います。

少年のころ一家でニューヨーク州モレイビアに引越します。そして、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越し、オウィーゴでは学校に通うことになりました。その2年後1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに転居しました。クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学びました。

父の不在と頻繁な転居にも関わらず、ロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年へと育っていきました。そんな初年時代を知る人は彼を、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったといっています。そしてロックフェラー少年は、議論がうまく、正確に自分の考えを表現し主張することもできました。早くから算術と経理の才能を発揮していましたが、その一方で音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていました。

16歳のとき(1855年9月)、簿記助手として、製造委託会社 Hewitt & Tuttleで働くことになりました。そしてそこで長時間働き、そのオフィスの仕事の全てに精通するようになりました。特に輸送費の計算に熟達し、そのことが後々大いに役立つことになりました。最初の3カ月間の給料は50ドル(1日あたり50セント)でしたが、その当初から給料の約6%を寄付していました。20歳のころには10%をバプテスト教会に寄付するようになりました。ロックフェラーが若いころの目標として、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたといいます。実際ロックフェラーはお酒もタバコも嗜まず、97歳まで生きました。

ボランティアのすすめ

20歳の時(1859年)資本金4,000ドルでモーリス・B・クラークと共に製造委託会社を設立します。そこで着実に利益を上げていきました。

スタートは食料品の卸売りからでしたが、1863年には当時クリーブランドの工業地域だった「ザ・フラッツ」に建設される製油所に投資しました。この製油所を直接所有していたのは Andrews, Clark & Company で、クラークとロックフェラーと化学者サミュエル・アンドリュースとクラークの2人の兄弟が創業した会社です。石油産業はちょうどこれから発展も迎える時期でした。そのころ鯨油が大量に使用するには高価すぎるものとなっていたので、安価な燃料が必要とされていた時代だったからです。

兄フランクが南北戦争で戦っているころ、ロックフェラーは彼の事業も引き継ぎました。北部の裕福な人々が戦う代わりに北軍に資金提供したように、彼も北軍に資金提供しました。石油産業史に詳しいダニエル・ヤーギンが重要だと指摘した出来事が1865年2月に起こりました。クラークと対立したロックフェラーが持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、精油事業(彼の会社が持っていた精油所は、処理能力が1日に原油500バレルであった。)を72,500ドルで買収したのです。その買い取った権利を基に、化学者のアンドリュースとロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立しました。ロックフェラーもこのことを後に「その日、私の経歴が決定した」と語っています。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進んでいった中、ロックフェラーはちょうどよい位置にいたといえるでしょう。多額の借金をし、利益を再投資し、市場の変化に迅速に対応していったのです。

南北戦争が終わったころ、クリーブランドはピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、原油の大部分を産出していたペンシルベニア州北部と共にアメリカの石油精製拠点のひとつになっていました。1870年6月、ロックフェラーらはスタンダード・オイル・オブ・オハイオを結成し、オハイオ州で最も高収益な製油所となっていました。スタンダード・オイルはアメリカ屈指のガソリンやケロシンの生産量を達成するまでに成長。熾烈な競争をしていきながら、ロックフェラーは競合する製油所の買収、自社の経営効率の改善、石油輸送の運賃値引き強要、ライバルの切り崩し、秘密の取引、投資資金のプール、ライバルの買収などの手段を駆使して事業を強化していきやがてはオイルを独占するまでになりました。

1880年代、世界の原油の85%はペンシルベニア産だったが、ロシアやアジアの油田からの石油が世界市場に出回り始めました。パリのロスチャイルド家も石油事業への投資に乗り出していきました。。さらにビルマやジャワでも油田が発見されました。さらに白熱電球が発明されたことを機会に、照明目的で灯油を燃やすことが減っていきました。スタンダード・オイルはそれでも状況に適応すべくヨーロッパにも進出、アメリカでは天然ガスの生産を手がけ、自動車向けにそれまで使い道がほとんどなかったガソリンを増産していきました。スタンダード・オイルはニューヨークに本社を移転、ロックフェラーはニューヨーク実業界の中心人物となりました。

1890年代に入ると鉄鉱山と鉄鉱石の輸送に事業を拡大したりしていましたが、この急激な事業拡大の時期に、ロックフェラーは引退を考え始めています。日常の経営はジョン・ダスティン・アーチボルド任せ、ニューヨーク市の北に新たな邸宅を購入、自転車やゴルフなどに興じる悠々自適な生活を送るようになりました。1902年、63歳で正式に引退した(1911年まで名目上は社長の肩書で、持ち株も所有)ときには、投資により5800万ドル以上を得ることになりました。

その後、スタンダード・オイルに対する批判や訴訟はどんどん多くなり依然として多く、特に1904年のイーダ・ターベルによる『スタンダード・オイルの歴史 The History of the Standard Oil Company』出版後にはその攻撃の声は高まりました。1911年5月15日にアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイル(64%の市場占有率を保持した)がシャーマン法(不当な独占を禁止する法律)に違反しているとの判決を下しました。その結果、市場を独占しているとして解体命令を下し、およそ37の新会社に分割されました。解体された時点でロックフェラーはスタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していました。彼も含め株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合のぶんだけ得ています。ロックフェラーの石油業界への影響力は減退しましたが、その後10年間で各社の株式から多大な利益を得ることになりました。それらの会社の価値の合計は解体前の5倍に膨れ上がり、ロックフェラーの個人資産は9億ドルに膨れ上がりました。

偉人になりたい人必見